1年ほど前の夏、伊勢の町を訪れた。
静かで、白かった。
平日の昼間だというのに、通りに人影はなく、比較的大きな車道を行き交う車の姿もない。
私たちは昼食をとるため20分近くも、駅から一番近い商店街を彷徨わねばならなかった。
シャッターの降ろされた裏寂れた通りを折れるたびに、なにか致命的な「破棄」の痕に遭遇するのではないか、と恐ろしく感じたほどである。ただ伊勢うどんを食べるというくだらぬ目的のためだけに、なぜここまで恐怖を味合わねばならぬのか。全くの理不尽! そもそもあなたは伊勢うどんというものを目にしたことがあるだろうか。ただ茹であげたうどんに、煮込んだ醤油をぶっかけただけの代物である。思うにかつて伊勢神宮の参拝客で賑わったこの町で、タチの悪いうどん屋が、いかに手を抜くか、という1点のみに苦慮した結果生み出された産物に違いない。そのツケを、今この町は払っている、と言えるのかもしれないし、言えないのかもしれない。


白昼夢。すべてが白々しく、過酷であった。ムルソーでなくとも、こんな町に住んでいれば人も殺しかねない。曰く、太陽のせい!

さて名古屋、という場所はなかなかユニークな場所である。この伊勢市のようのすべてが終わってしまったという諦観の様相を示すこともなく、また、東京のように致命的な喪失を覆い隠そうとする切実な虚構もない。
あと3年、長くて5年のモラトリアムを、それと知らず生きる穏やかな表情ーーのんびりとしたアホ面で、ありのままにすべてを受け入れ、充足する。そんな場所である。
今の自分には、ふさわしいような気もする。