『本当なんだ』

 

これから僕が話すこのちんけでおぞましいお話のまえに言っておきたいことがある。僕がまだ時間と体力と自尊心とを叩き売りにして僅かな日銭を稼いでいた男娼だったころ、山手線のある駅ビルの解体現場でバングラディッシュだかカンボジアだかそのあたりの貧しいアジアの国から出稼ぎにやってきた差し歯だらけの小汚い男が片言の日本語で僕にこう囁いた。「もちたいっておもったらねぇ捨てるこった若い人」


僕はそれを聞いて「ああ、確かに復活の前には死があるね」と薄ら笑いを浮かべながらその男の信仰を揶揄ってやったつもりだが男はしばらく魂の抜けたような顔で僕を眺めてなにか言ったけれど、その言葉は掘削機のはらわたをよじるような音にかき消されてしまった。汗がとめどなく流れてそれから一年後。

 

「自分自身と戦う? なんておぞましいことでしょう!
だってその戦いに審判を下すのも自分自身じゃありませんか。
これ以上の八百長があるでしょうか?」


「ルールのないものを、ゲームとはいわない。」

(いずれも僕自身の言葉)

 

 

震える指で、紙マッチを擦って火をつけた。

たぶん全部勘違いなんだろうけど

それは湿った音を弾かせて、黒い流れとなり、夜の喧噪を吹き抜ける冷たい風に、溶けた。

君はね、ときどき自分が抗いようもない大きな濁流のなかにいる、そう感じることがある

バス停留所の脇で年老いた浮浪者が悲痛な呻き声をあげた。

もちまえの悲観主義で人生を楽観し、ありきたりの諦観思想で限りある生を謳いあげる人々に君は激しく嘔吐しながら

咳き込んだ。不吉な咳だった。

まるで他人事のようにそう感じるんだ

雫が頬に触れた。君は一瞬、自分が泣いているのだと思った。それは違った。見上げると低い建物に切り取られたうすい夜から、白い欠片が落ちてきた。飲食店の裏で男が女を実に機械的な反復で殴っていた。その脇で猫が残飯を漁っていた。それらが一つの絵画のように、見えた。君は猫が嫌いだった。

君は流されていく。なにか暗くて冷たい方へ、ゆっくりと流されていく、その気配だけはほんの少しずつ、しかし確実に君の内部に沈殿していく

雪が、降りだした。


マジでフケみたいな、雪だった。


浮浪者が、また吠えた。


傷ついた獣の声だった。


ゴミ溜のような街だった。


なぜか暖かかった。

君はもう一度、今度は火元を少し下げ気味にして、紙マッチを擦った。炎が黒々とした炭素をあげながら、君の指を舐めた。落ち窪んだ君の瞳を縁取る長い睫毛が少しだけ、揺れた。それだけだった。

なぁ、君のおしゃべりは、ただの老人の迷いごとなのだろうか。ありがちな破滅への熱望なのだろうか

煙草に炎は、移らなかった。君はマッチを投げ捨てた。

でも本当なんだ

君は駅前の貸しビルの、原色の欲望が具現化したような張り紙だらけの階段に、両足を投げ出すような格好で、身を横たえていた。タクシーのクラクションが、実にオヤジっぽく、薄いネオンの谷間を駆け登った。街は暴力に溢れていた。貧弱な、暴力だった。しかしそれは、とめどなかった。

本当なんだ

君の言葉を聞くものは、一人として居なかった。

だけどそこは本当に暗くて冷たい場所なんだ。本当に。そこで君は間違いなく、不幸せになる。それは絶対的な、不幸なんだ

もう一度。


震える指で、紙マッチを擦って火をつけた。


青い炎のむこうの街は揺らめいていた。


馴染んだ苦みが口蓋に充満した。


君は煙草を荒れた唇にはさみ、大きなため息とともに、吐き出した。


こみ上げるような咳をした。


街が、石化した。


マジでフケみたいな雪が、降っていた。

「本当なんだ」

それはここよりずっと悪い場所なんだ。致命的な、おしまいなんだ。君はそこへ流されていく。どうしてそんなことになってしまったんだろう。誰のせいで?思い巡らせて、自嘲。誰のせいでもなく、君のせいで。君自身のうっとりした部分が君をそれへ誘い、流れに乗ったところで、置き去りにした。それだけ。

君は頭を精いっぱい仰け反らせて、煙草を吐き捨てた。それは君の次の言葉を待つ、まだ煙の立ちのぼるマッチの群に加わった。突然の君の動きに、会社帰りの肌の疲れた女が平坦な視線を投げた。視線だけだった。ただ、それだけだった。

喧噪が、遠くなった。静かだった。ただ、近くの自動販売機の電飾が、激しく君の目を刺した。視界が白く覆われた。その中心に、何かが蠢いていた。君はそれを見極めようと、した。それだけは、見ておきたかった。無駄だった。すぐに、周囲が闇に侵食されはじめた。暖かくなった。冷たくなった。どちらでも、同じだった。

無造作に伸ばした君の長い髪を、雪が覆いだした。もう君はなにも言わなかった。泣いているような笑っているような、そんな唇の奥で、何かが、音もなく消えていた。それまでくすぶっていた煙草の煙も、ずっと昔に、死んでいた。

雪は、降り続いた。


雪は、静かに汚物にまみれた街を白く覆い始めた。

 

そのままでいい。聞いてくれ。

君はもうくたばっちまったのかい?まさか。春になってここらも暖かくなれば、また君はこのくそったれな雪の下から息を吹き返すだろうさ。それが自然の摂理ってもんじゃないか。なぁ、そうだろ?君はまだくたばっちまってなんか、ないよな。なぁ、なんとか言ってくれ。

 

このお話にはもう少し続きがある。

この物語の舞台は極寒の荻窪で、8時間。君は僕で、前後不覚になるほど酔うのはもう金輪際にしたいと思いました。死ぬかと思った。本当に。